お風呂の中の哲学者    (お風呂の中から考える)

このブログはお風呂の中で書きます。湯舟に浮かびながら、ふんわりした気持ちで頭に浮かぶことを書いて行きます。

それって、才能ない

ダンスを踊れる人を尊敬している。

 

字を綺麗に書ける人を尊敬している。

 

絵を描ける、

デザイン出来る人を尊敬している。

 

僕はそのどれも出来ない。

 

だから、これらを出来る人を

本当に尊敬している。

 

これらの能力に共通するのは、

ある動きや形を見て、

それを自分の動きにコピー出来ること。

 

ダンスならば全身

文字や絵を描く場合ならば

腕と指先に、

その動きや形を

落とし込まなければダメだ。

 

多分

見ているもの、見えているものは、

これらが出来る人と僕とでは、

そんなに違わないと思う。

 

「思う」と言ったのは

本当に本当のところは

確認のしようがないからだ。

 

とらえる形はあまり違わないだろうけど、

感知している色は、かなりの差があるのでは?

と思ってる。

 

瞳が黒い僕と、瞳が青い人では

見える色が違うのでは...

 

しかし、形や動きの認識は

さほど違わないと思う。

 

なのに、僕にはその再現性がゼロ。

字も上手くならないし、絵だってそうだし、

ダンスに至っては壊滅的だ。

 

小さい時からそうなので、

「そういうもの」と思っていたんだけど、

最近、気がついた。

 

スケッチやデッサンではなく、

何も対象を見ないで

出されたお題で絵を描く時がある。

 

「犬を書いてみましょう」

 

「みんなの好きなウサギを書こう」

 

「ネコだったら書けるよね!」

 

こういう状況で絵の上手い人は、

サラサラと書き始める。

僕はどこから書き出してよいか分からず

迷っているさなかに、

絵の上手い人は

もうほとんど書き上がっていて、

ほとんど手直し無く終わる。

 

あっけにとられてしまう。

 

モデルがそこにあり

それをデッサンしてるならば、

思考がほとんど要らないので

早く書き上がるのも分かるけど、

何も見てないのに...

 

もうそれは、

フォルムや色に対してのデフォルトの記憶力が

とてもいいとしか考えられない。

 

絵が上手い人ならば、

色んな対象物のフォルムや形を、

デフォルトである程度記憶してるとしか

考えられない。

 

逆に僕は、

対象物に対するデフォルトの記憶が

あまりにも少ないのだと思う。

 

同じスケッチをしたとしても、

絵の上手い人はデフォルト記憶の

土台があるので、

僕のようなデフォルト記憶が無くて

ゼロからスケッチする人間とは、

スタート位置が全然違う。

 

これじゃあ、

ニュアンスを出すどころではない。

 

しかし、だ。

いつも書いているこのブログ。

1000文字を20分程度で書くのだけれど、

言葉を考えながら書いている訳ではない。

そのシーン、心象風景を「見ながら」

書いている。

 

そう、「映像」を見ている。

 

逆に、でなければ、

このスピードで書くのは無理なのだ。

 

ん、とすると、

僕には映像の記憶がある⁈

 

あるのに絵を描けない。

あるのに踊れるない。

それって才能ない。

 

やれない事はやらない主義なのだ、結局。

 

2018年11月14日(水)21:58

 

 

 

夜空の理由

あのころ...

そう、僕が小学生くらいのころ、

冬の夜空を見上げるのが好きだった。

 

風呂から上がって身体を乾かし、

決まって30分くらい、いつもながめていた。

 

寒くなかったのかと思いだすんだけど、

寒かったという記憶は無い。

 

星座にも詳しくないし、

雲の細かい知識もない。

 

ただただ、ぼんやりながめていた。

 

時折、風の音に混じって、

どこか遠くからクルマの走る音が

流れてくる。

 

すごく遠くに感じる音だ。

 

星を見だ記憶と一緒に覚えている音の記憶は、

どれも凄く遠い音だ。

 

僕は星座の形もよく知らずに

キラキラ光る星たちと共に、

遠くから風と共にやってくる音を

聞いていた。

 

あの時の僕は

なぜあんな事をしていたんだろう?

 

寒い冬の夜空を眺めて

遠くから風に乗ってやってくる音を

聞くなんて、

何がしたかったんだ?

 

いや、わかってる。

 

僕は大人になってからの事は

昨日の事すら覚えていないけど、

小さな子供の頃の事は

昨日のように覚えている。

 

その時の僕は、まだ小学生だというのに、

1日の終わりには、

色々と空っぽにしたかったのだ。

 

小学生の僕には

抱えきれないくらい

理解しきれないくら

耐えきれないくらい

色々な事が起こっていて、

1日が、特に夕方からが

とても長かった。

 

「どこまで出来るのだ?」

「まだやれるだろう?」

「止めたら終わりだ」

 

毎日、毎時間、そういうせめぎ合いを

強いられる生活で、

1日が普通に終わるなんて日は無かった。

 

そんなピークばかりの日々で、

どこかでスイッチを切らないと

自分が消えて無くなってしまうと

思ったのだろう。

 

夜空を見上げるようになった。

 

夜空の星を見て、時折風に流される雲を見て、

風に乗ってくる遠くの音を聞く時だけ、

星になり、雲になり、音になる事が出来た。

気が遠くなるような意識の中で、

自分を消せる事ができた。

 

星でよいのだから、雲でよいのだから、

音でよいのだから、

これほど有り難く、楽な事はない。

 

毎日そうやって30分ほど過ごして、

ようやく眠ることが出来た。

 

あの時の彼は

本当に頑張っていた。

 

今の僕は、あの時の彼ほどではないけれど、

やはり、星になり、雲になり、音になる時間が

必要だ。

 

今夜、やってみようと思う。

 

2018年11月13日(火)22:45

 

 

人の仕業

建築物を見るのが好きだ。

 

もちろん、専門家でもないし、

図面を引ける訳でもない。

 

構造計算が出来るほどの

数学力なんてないし、

ハイパー文系の感性の僕から

ある種、一番遠い世界。

 

ただ、それだけに

憧れが強い。

 

「理系の能力を持った人

    クール説」

 

というものが、ながーく僕を支配している。

 

そんな素人丸出しの僕の感想なので、

これから言うことは

どうか気にもしないで欲しい。

 

建築物って、僕にとっては

アート作品そのもの。

 

しかも、一番大きなアート作品だと思う。

 

フォルム、デザインが

素晴らしいものですら稀なのに、

そこに建築物として成立ささねばならない

数字上のルールーが存在する。

 

いくら美しいものだとしても

すぐに壊れてしまう危険なものは

エントリー出来ない。

 

「美しさの為に

   安全性と耐久性は追求しませんでした。」

 

なんてものは、ダメなのだ。

 

美しく、かつ安全であったり、

美しく、かつ丈夫である必要がある。

 

これは本当に凄いことだ。

 

安全性と耐久性は、

必ず押さえねばならないのであり、

そこをクリアしてから

スタートラインに立つ。

 

その上でフォルム、デザインの話が始まる。

 

これは本当に凄いことだ。

 

僕の友人で、

「建築金物」の設計者が居る。

 

建物というのは骨組みの鉄筋や、コンクリートや、窓や、配管などの色々な要素で出来ているけれど、その人が受け持つパートは、手すり、外観、内観、ありとあらゆる所に使われる、金属パーツの製図をしている。

 

窓、鉄筋などは、それぞれ規格があって

その規格に沿った商品シリーズが

取り揃えられており、

それらのパーツを組み合わせていく作業。

 

決まった種類のパーツしか無いので、

パターンというのが限定される。

 

しかし、建築金物の分野は、

そうはいかない。

 

金物、つまり金属を使う部分は、

建物の中で僕らが目にしている部分だけでも、

かなりの箇所数があるけれど、

目にする部分というのは、

デザインにも関わってくるので、

いわゆる規格品が無い場合が多い。

 

その建物のその場所にあった金属パーツを、

1回ずつ、そのたびにデザインから

大きさから、1から考える場合が非常に多く、

その図面を引く者に、かなりの負荷がかかる。

 

そんな事を知ってから、

元々好きだった安藤忠雄氏設計の建物や、

関西空港のデザインで有名な

レンゾ・ピアノの建物が、

 

「機能とデザインが高い次元て成立している」

 

作品としだけではなく、

 

「とんでもない労力がかかった作品」

 

と、思えるようになった。

 

 

先日、平成の大改修真っ只中の、

世界遺産 比叡山延暦寺に行ってきた。

 

メインのお堂である根本中堂が

まさに大改修中だったのだが、

工事中の足場を利用して見学コースが

作られており、

普段では見る事が出来ない部分を

たくさん見ることが出来た。

 

特に圧巻だったのは、屋根。

 

巨大な屋根を上から、目の前で、

見る事ができた。

 

屋根の一番下の部分からその頂点までは、

20mくらいはあるだろうか。

 

その屋根の一番下の部分が目の前にあり、

その場所から屋根の頂点に向かって

視線を送ると、

長ーい丘のように見えて、その頂点が

まるで山のように見える。

 

ほとんど真っ直ぐなんだけれども

わずかにラウンドしていて、

草原の丘のように見える。

 

一緒、自分は草原を、

山を見ている気持ちになる。

 

しかし、その草原をよく見てみると、

ほぼ均等に作られた細長い木の板が

ビッシリと敷き詰められた屋根だと気がつく。

 

横10cm、幅5cmの切り口の細長い角材が、

何十万枚と敷き詰められて、屋根が出来てる。

 

恐ろしいのは、屋根のセクションごとに

パーツの長さが微妙に違ったり、

屋根のデザインが直線ばかりではなく、

海岸線にある岩のように、

複雑な曲線でデザインされている場所がある。

 

つまり、ひとつのパターンで

押し切るのではなく、

イレギュラーな要素も含んでいるのだ。

 

当然ながら、

そういうイレギュラーな場所に対しては

その都度、部品をデザインせねばならないし、

組上げる作業の複雑さも増す。

 

考える量、作業の量が

指数関数的にふえる。

 

しかもここは、山の上なのだ。

クルマで登っても30分くらいかかる、

高い山の上なのだ。

 

そんな環境で何百年も前に、

とんでもない作業までして

とんでもないモノを作っている。

 

全て、人の仕業で出来たもの。

 

そこまでしないと

満足できなかったのかと思うと、

人間の業の深さに

軽く目まいを覚えた。

 

2018年11月12日(月)22:16

 

 

 

バベルの塔を建てたあの日から

 

 

だから自分の、今、こうして思っている事を

「過不足なく」「等身大のまま」に、

「バックグラウンド」「知識レベル」が

全く違う人に伝えようとする時、

本当に難しいと感じる。

 

 

「ちゃんと伝わってるかな?」

 

「この人にはこの言葉   

   わからないかもしれないけど、

   これ以外の言い回しにすると、

   ニュアンスが全く変わる」

 

「この言葉、そういえばこの人は

    僕とは違う用法で使っていた気がする」

 

 

同じ日本語を使う者どうしでも

感覚やニュアンスを過不足無く伝えるのは

本当に難しいと思うのに、

違う言語同士ならば...

 

子供の時に

 

「なぜ世界の人々は

    話す言葉が違うんだ?」

 

と思ったことがあり、

調べてみたことがある。

 

時はむかしむかし、旧約聖書の時代まで

さかのぼる...

 

その頃の人々の使う言葉は

世界中で一緒だった。

そのおかげか、人間はどんどん発達し、

都市が発展していった。

 

自ら「何でも出来るのだ!」という

自負心や万能感を持っていた。

 

ある時

 

「神が居るであろう天に届くほどの

   高い高い塔を作ろうではないか! 

   我々ならば出来る!」

 

という事になり、たかい塔を作りはじめた。

 

しかし、謙虚さを無くした

人間の行いを見て神が怒り、

その塔を破壊した。

 

それだけではなく、

それまで同じ言葉を話していた人々に

バラバラの言葉を与えた。

 

 

まったく、余計な事をしてくれたものだ。

 

いやいや、神に言ってるのではない。

人間にだ。

 

「天に届くくらいの高い塔を作る」

なんていう、バカな欲望のおかげで、

「同じ言葉でコミュニケーション出来る」

という素晴らしい状況を

奪われてのだから。

 

 

「Commuovere (イタリア語)」 

   涙ぐむような物語に触れた時感動し、

   胸が熱くなる。

 

「Gezellig(オランダ語)」

単に居心地がよいだけでなく、

ポジティブであたたかい感情。

物理的に快い以上に心が快い感覚。

 

Merakiギリシャ語)」

料理など、なにかに自分の魂と愛情を

めいっぱい注いでいる。

 

こんな、訳しようのない

素晴らしいニュアンスの言葉が

世界中にはある。

 

この言葉を言う時のその人の感情を、

僕ら人類はもう二度と、

過不足無く感じられないのだ。

 

2018年11月11日(日)22:44

 

 

 

晴れて雨の降る場所

昨日は1日中、海の上に浮いていた。

船の上にいて、釣りをしていた。

 

「そんなに釣りが好きなの?」

 

いや、好きではない。

というか、よくわからない。

ほとんどやった事がないのだ。

 

「じゃあなぜ、やろうとしたの?」

 

釣りをしたいというより、

船に乗りたかった。

海の上に居てみたかった。

 

「じゃあ、普通の客船にでも

    乗ればいいじゃん。」

 

普通の客船は、

自分が操作しなくてもいいかわりに、

自由にあちこち行けないじゃん。

 

せまい範囲でいいから、

自由に海の上を移動してみたかった。

 

「ふーん。

    船に乗るって、なんだか朝が早そう。」

 

たしかにね。

朝5時起きの6時出発、

2時間程度クルマで走り、

8時に現地到着。

海に出たのは9時ころかな。

 

「やっぱり!

    そんな早起き、できないー。」

 

僕も早起きは苦手。

宵っ張りの朝寝坊だよ。

無理して起きたんだよ。

 

多少は眠かったけどね。

 

「ふーん。よく起きられたのね。

    で、どんな感じだった。」

 

釣りがどうこうというより、

凄い体験だったよ!

 

「凄いって、どんな?」

 

当日の天気予報は、昼過ぎまでが雨。

カッパが必須の予報だったけど、

雨は降っていなかった。

むしろ、晴れ間さえあったんだよ。

 

「ふーん。」

 

晴れ間はあっても天気予報は雨だから、

その予報が現実の天気とせめぎ合うように、

雲の流れはとても早かった。

 

その雲の流れの早さ、低さが、

見たことのないような迫力で、

僕の目に入ってきた。

 

遠くを見てみると、

雲と雲の間から出た光のカーテンが

海面まで届いている場所があり、

ステージ上のスポットライトのように

所々、海面を照らしていた。

 

まるで、天国から伸びてきた階段みたいに。

 

 

 

海の上に出てみると、

湾内を取り囲む山の木々が紅葉している。

赤、黄といった鮮やかなな色が、

真っ青な空と強烈なコントラストを

作り出していて、

時折素早く流れてくる雲が重なった時、

さらに凄まじいコントラストを発生し、

雲、空、紅葉のエッジのラインが

鮮明に浮かび上がった。

 

「何だかきれい...」

 

「何だか」なんてもんじゃない。

とても綺麗だった。

 

時間もあっという間に過ぎ、

流される波のリズムに乗っていると、

時間の感覚がすっかり消えてきた。

 

その時にやっと気づいた。

 

時折通り過ぎる船、飛んでいる鳥たち、

波の音...

 

それ以外に、何の音もしない。

人の気配を感じさせる音が

何もないのだ。

 

自分というものをことごとく意識させられるけど、それも一瞬で、「ピーっ」と鳴く鳥、「プォー」と汽笛を鳴らす船、「ジャブジャブ」と音を立てる波に、意識が持って行かれた。

 

何もない。

自分というものも、ことごとく消えている。

 

そのうちに気がつくと、

他の場所は青く晴れているのに、

自分の200m前方にだけ、上空に雲が出て、

雨が降っていた。

 

ほんの手前にもかかわらず、

自分の居る場所には雨が降らず、

200m前方には雨が降っている。

 

数十分時間が経つと、

今度はこっちだけに雨が降り、

ほんの少し前方は晴れていた。

 

ポタポタと自分をたたく雨の音以外は、

何も音がしなかった。

 

そのうちに、何だかここが

「あの世の入り口」

のように思えてきた。

 

朝に見た、雲間からさす光のカーテン...

ほとんど音の無い世界...

晴れと雨が混ざった天気...

 

そこに加えて、

自分が何時間も、世間の何の役にもコミットしていない感覚...

 

完全に、この世と切り離され

ているみたいだった。

 

7時間くらい海の上に居てから

港にもどって、

帰り道のクルマを20分程度運転して、

初めて「この世」感が戻ってきた。

 

あれは、何だったんだ?

 

あの世の入り口は

海の上にあるのか?

 

もう一度、確かめに行こうと思う。

 

2018年11月11日(日)0:13

 

 

無限のループ

平日の昼間、

しかも晴れた昼間に

クルマを走らせようとして、

キーを取り出す。

 

仕事でもないのに、

ちょっとした用事なのに、

わざわざクルマを出した。

 

11月に入ったというのに

晴れた日の今日は、

窓を閉め切って走っていたら

暑いくらいの陽射しと気温だった。

 

少しだけ「あて」はあるけれど

その「あて」は早々に済み、

真っ直ぐ家に帰れば良いものを、

凄く遠回りをしてみた。

 

水辺のすぐ横を通る道を出るためには、

少し混雑する街中を走らなければならない。

 

「渋滞」とまでは言わないけれど、

全く止まらずに済むという訳にはいかない。

 

凄くゆっくり走る流れだったから

えらくクルマが多くて渋滞してるのかと

思いきや、

真ん前のクルマが凄く遅くて、

そのクルマの前方には

1台も走ってっておらず、 

景色がスコーンと抜けていた。

 

少し前ならば

そのゆっくり走る真ん前のクルマを

何とか抜き去ろうと

躍起になったのだけど、

今日は全くそんな気が起きなかった。

 

色々な実験でも

その手の追い抜きをしたところで

10km程度の移動距離ならば、

追い抜かしたクルマと

追い抜かされたクルマの到着時間は、

さほど変わらない事が実証されている。

 

しかし、かつての僕は

「それでも」

追い越そうとしていた。

 

何でそんなに

急いでいたんだろう?

 

何でそんなに

焦っていたのだろう?

 

今となっては

全く思い出せない。

 

わずかに思い出せたのは、

前に遅いクルマが走っていて

追い越そうとしていた時の気分って、

ひどくザワついていたな、

という感触だけ。

 

 

僕は

心の中に波が立つのが大キライだ。

特に人によって波立てられるのが

最もキライだ。

 

朝起きて眠るまで

無変化であって欲しい訳ではない。

人間が生きるという事は

絶え間ない変化の連続だ。

 

それは当然受け入れる。

 

そういうものではなくて、

心をザワつかされるのが大嫌いだ。

 

 

普通にしていれば穏やかな心の中を、

まさに言葉通りに「逆なでされ」

ザワつかされる。

 

それをするのは

大抵人間だ。

 

もっと言うと、大人の人間だ。

 

ちょっとした目つき。

ちょっとした声のトーン。

ニュアンスが合わない言葉。

マナーを欠く行動。

 

こういうものに

ザワつかされる。

 

やってる大人の人間に自覚が無いから、

手加減なしで襲われて、

受け手のこちらは

ひどく傷つく。

 

彼らは傷つけたとも思っていない。

 

場合によると

 

「俺が傷つけたと報せてくれ」

 

とまで言う。

 

冗談ではない。

言えないよ、そんなこと。

言ったら僕が、また傷だらけだ。

 

かくして

無限のループに入る。

 

日本語を話す者同士でも、

言葉が通じると思ってはいけない。

 

 

今日、前に遅いクルマが走っている時、

自分の心のがザワついていないのが

分かった。

 

以前はあんなにザワついていたのに。

 

「どうやら、無限のループから脱出したかな」

 

と思うと、嬉しくて、

スキップしそうな気分になった。

 

クルマに乗ってるけどねw

 

2018年11月8日(木)21:59

 

デザインされた有機体

僕の親友で

「演算」で

音楽を作ろうとしている奴がいる。

 

僕のブログで時折出てくる

「天才」だ。

 

「演算による作曲」ではなく

「演算によるサウンド作り」だ。

 

パソコンで作曲したり

デジタルに録音する現代だから、

「全てアナログじゃないとダメ」

という人は、

今はほとんど居ないだろうけど、

 

「演算」

 

と聞いてしまうと、

久しく忘れていたデジタルへの嫌悪感を

思い出すかもしれない。

 

しかし、何故人間は、

デジタルへの嫌悪感を示すのだろう?

 

だって、人間のシステムは

デジタルなんだけどな。

 

脳にあるシナプスに流れる電気信号によって、

思考や行動をコントロールするのだから、

「ゼロと1」の世界で、

その仕組みはデジタルそものだ。

 

電流が通る/電流が通らない

 

その2択で、全てを処理するのだから、

まさにデジタルの世界だ。

 

人間の色々な決定というのは

デジタルなのだ。

 

 

「いや、そんなことは無い。

    どうにもこうにも、はっきり出来ないもの、

    はっきり出来ない事ってあるじゃないか」

 

と思う場合があるかもしれない。

 

そうだろうか?

 

その状況のデータが少な過ぎて

解析にズレが生じる事はあるだろうけど、

それが揃えば、

判断自体はデジタルなはずだ。

 

「いや、『やる/やらない』という回答以外に

『どっちでもない』というものが

   あるじゃないか。」

 

と思うかもしれない。

 

しかし、この

「どっちでもない」という回答は

言い換えると、

 

「今後やるかやらないか決めるけれど、

   とりあえず今はやらない」

 

という事だから、

「やらない」、つまりゼロにする

ということ。

 

結局は2択で回っているのだ、

我々の世界は。

 

それを潜在的に拒否したり

回避しようとするのは、

ある選択肢を選んだ瞬間から

もうひとつの選択肢を捨てる事になるから。

 

選ぶということは

可能性をひとつ捨てることだから、

その恐怖心から、

かけられもしないリスクヘッジ

かけようとする。

 

なるべく選択肢を溜め込んでおこうとする。

 

しかし、脳みそは一個で、

自分の身はひとつ。

 

結局、ひとつしか選べないのだ。

 

それが納得できたら

コンピュータの演算で音楽を作るって、

ひどく「自然なこと」に思う。

 

その方向に惹かれて

そういう作り方をするのは、

とても真っ当じゃないかな。

 

「まるでロボットみたい」

 

その感想は、とても正しい。

 

僕らを構成している物資こそ有機物だけど、

システムデザインとしては

無機物と相性がいいと思う。

 

だから、

 

「人間は無機物として始まり

   無機物に回帰しようとしている」

 

という、大阪大学の石黒教授の考え方に、

とても納得するのだ。

 

天才の彼とそういう話をしていたら

 

「自分も無機物というか、

    機械になりたいです。

    でも現状は有機物なので、せめて

    デザインされた有機体ではいたいです。」

 

と言っていた。

 

あまりに同感過ぎて、

彼と何度目かの握手をした。

 

2018年11月7日 (水)21:07